LOGIN第20話 聖女は、勇者の所有物ではない
『遥人さん、助けてください。私の名前が、私の中から消えていきます』
遠く離れた帝都にいるはずのセナの声が、左手の真銀の環を通じて聞こえてきた。
もっとも、それはリシアの魂語ほど鮮明な声ではなかった。水の底から必死に呼びかけているように途切れ、耳を澄ませなければ言葉として拾えない。なぜセナの声が、リシアとの契約によって生まれた環へ届いたのかも分からなかった。
ただ、聞き間違いで済ませられるような悲鳴ではない。
「待ってくれ、セナ。今、そちらへ繋ぐ方法を探す」
俺が左手に呼びかけると、リシアが不安そうに眉を寄せた。
「セナの声が聞こえるの?」
「ああ。ただし、魂語とは違う。君との繋がりに入り込んでいるというより、別の術式を通って届いているような感じだ」
万象通訳で真銀の環に重なった術式を読み取ると、見覚えのある命令文が浮かび上がった。以前、王国がセナの身体へ埋め込んでいた殺害術式を解いたとき、俺は彼女の命を繋ぎ止めるため
第26話 婚約を解消すれば、世界は救える俺とリシアの真銀の環から伸びた黒い糸が、フィーネの胸へ突き刺さっていた。フィーネの身体は銀色の光へ変わり始め、足元から少しずつ輪郭を失っていく。肉体が消えているのではない。聖剣から生まれた彼女の存在が、王都地下に眠る始祖竜の心核へ引き戻されようとしている。「お兄ちゃん、痛いよ。身体の中から、フィーネじゃないものに戻されそう」俺へ伸ばされたフィーネの手を掴んだ。しかし、触れた指先まで冷たくなり、半透明に透けている。黒い糸を引き抜こうとすると、その力は俺の左手にある真銀の環へ流れ込み、逆にフィーネを強く引き寄せた。『無駄だよ、如月遥人』閉ざされた扉の奥から、御厨統馬の声が聞こえる。『その少女は、始祖竜の心核から切り離された記憶の器だ。本来あるべき場所へ返しているだけで、私は何も傷つけていない。心臓へ戻れば一つの大きな存在として完成するのだから、喜ぶべきではないか』「本人が嫌がっているのに、一つへ戻すことを完成とは呼ばない」『幼い子供には、自分にとって何が幸福なのか分からない。大人が正しい道へ導く必要がある』「そう言って、何人の名前を奪った?」御厨統馬は答えなかった。言葉を理解する力を持ちながら、相手の言葉を聞くことをやめた男にとって、フィーネの意思など最初から答える価値のないものなのだろう。「遥人、環を切ります」リシアが立ち上がった。先ほどの衝撃で呼吸は乱れ、胸元を押さえる指も震えている。それでも、フィーネを見つめる金色の瞳には迷いがなかった。「私たちの真銀の環が、始祖竜を目覚めさせる鍵になっているのでしょう。ならば、婚約契約を解除し、二人の繋がりを断ちます」「待ってくれ。今切ったら、君の魂まで傷つくかもしれない」「フィーネが消えるのを見ているよりはましです」「どちらかを犠牲にする前提で話すな」「では、ほかに方法があるのですか!」リシアが声を荒らげた。「私だって、
第25話 四百年前の通訳は、世界を支配した「御厨統馬。始祖竜の名と言葉を奪い、この世界で最初の聖王となった日本人。それが、神崎怜央の中にいる男の正体だ」カナタが告げた名前は、王国語でも古代竜語でもなかった。聞き慣れた日本語の響きだった。俺や怜央たちより四百年以上も前に、この世界へ召喚された日本人がいた。そいつが人間王国で聖王と呼ばれ、始祖竜の力を奪い、今は怜央の名前と身体を使って蘇ろうとしている。驚くべき話なのに、不思議と納得できる部分もあった。古代王は俺たちが元いた世界の言葉を理解していた。それだけでなく、怜央の記憶を食い始める前から、俺の能力を「意味の継承者」と呼んでいる。この世界にしか生きたことのない人間が、俺の万象通訳について詳しすぎるとは思っていた。「御厨統馬について、ほかに分かることはあるか」「俺に流れ込んだのは、あいつが隠しきれなかった断片だけだ。生まれた時代や年齢までは分からない。ただ、召喚されたとき、あいつは勇者ではなかった」カナタは自分の記憶を探るように目を閉じた。「戦う力を持たず、魔力も少なかった。与えられた能力は、異なる種族の言葉と、魔法に込められた意味を理解すること。王国からは、戦争を止めるための通訳として使われた」リシアが俺を見た。「遥人と同じ能力なのですか」「完全に同じかは分からない。でも、よく似ている。御厨統馬も最初は、人間と竜族が話し合うために召喚された。ところが、言葉を訳しても戦争は終わらなかった」「当然でしょう。言葉が通じたからといって、利害や憎しみまで消えるわけではありません」「そうだ。王国は、自分たちに有利な言葉だけを竜族へ伝えるよう命じた。竜族も、人間が受け入れられない条件を突きつけながら、拒絶された責任を通訳へ押しつけた。統馬は、両方の側から裏切り者と呼ばれたらしい」話を聞くほど、嫌な感覚が胸へ広がった。追放される前の俺も、似た立場にいた。人間王国が先に竜族の領地へ侵入したことを示す条約を訳した結果、都合の悪い真実を知る者として捨てられた。
第24話 俺を名乗る偽物は、死にたくないと言った『本物の私は、ここにいる。そこに隠れている男こそ、私の名を盗んだ偽物です』処刑台の上にいるもう一人の俺が、王都中へ響く声で告げた。広場へ集められた民衆が一斉に周囲を見回し、王国兵たちも武器へ手をかける。偽物の視線は間違いなく俺たちが隠れている建物の陰へ向けられていたが、幸いなことに、群衆からはこちらの姿が見えていないらしい。「ここを離れます。あの者が、私たちの位置を兵士へ伝える前に」リシアが俺の腕を引いた。「待ってくれ。あいつは本当に俺たちを見つけたのか?」「こちらを見て笑ったでしょう。ほかにどう解釈するのですか」「俺たちを見つけたなら、建物の場所を言えばいい。なのに、そこに隠れている男としか言わなかった。あいつは俺の居場所を知っているふりをして、誰かに合図を送ったんじゃないか」「誰かとは?」「たぶん、俺だ」リシアが呆れたように眉を寄せた。「自分を名乗る偽物から、自分へ合図が送られたと言いたいのですか。名前を奪われた影響で、あなたまで話を複雑にする癖が強くなっていませんか?」「俺だって説明しづらいんだよ。ただ、あいつの最後の言葉だけ、王都の命令術式と意味が重なっていなかった」処刑台の偽物が罪を認めていたとき、言葉の裏には民衆へ俺を憎ませる命令が流れていた。反逆者だと信じろ。偽りの名を奪え。その力を勇者へ捧げよ。すべてが古代王の意思によって組み立てられていた。ところが、俺を偽物だと指さした最後の言葉だけは違う。そこに込められていたのは、敵意ではなく、切羽詰まった呼びかけだった。――見つけてくれ。俺がここにいるうちに。「助けを求めているということ?」フィーネが小声で尋ねた。「そう聞こえた。あいつは俺を陥れるために作られた存在だ。でも、作った奴の命令どおりに死にたいとは思っていないのかもしれない」「その願いに応じれば、罠へ踏み込むことになります」リシアの警戒は当然だった。
第23話 名前を忘れても、俺は彼女を選ぶ目の前にいる女性が、俺にとって大切な人だということは分かっていた。雪原で鎖に繋がれていた銀白の竜で、俺を竜帝国へ連れていき、処刑する代わりに偽装婚約を申し出た第三皇女。強くて誇り高く、他人に弱さを見せることを嫌うくせに、誰かが傷つけば自分の痛みまで後回しにする、不器用で面倒な女性だ。彼女と交わした会話も、一緒に食べた料理も、眠れない夜に窓辺で過ごした時間も覚えている。それなのに、名前だけが分からない。「遥人、私の名前を言ってください」彼女は俺の左手を握り、真銀の環へ自分の魔力を流し込んでいる。金色の瞳に浮かんでいるのは怒りではなく、俺が答えられないことをすでに分かっている人間の恐怖だった。「待ってくれ。思い出せそうなんだ。最初の音は……」頭の奥に銀色の光が浮かぶ。あと少しで掴めると思った瞬間、地上から響く大合唱が魔導貨車の天井を震わせた。『如月遥人の名を世界から消せ。その力を、真なる勇者へ返せ』何万もの声が俺の名前を呼び、反逆者、裏切り者、災いの使者という意味を押しつけてくる。そのたびに、銀色の光は指の間から零れる砂のように消えていった。「悪い。どうしても出てこない」「謝らないでください。あなたが悪いわけではありません」彼女はそう答えたが、俺の手を握る力がわずかに弱くなった。『頭では分かっている。遥人は名前を奪われているだけで、私を忘れたいわけではない。それでも、名前を呼んでもらえないことが、こんなに怖いなんて思わなかった。私だけが二人の時間を覚えていて、遥人にとって私は知らない女になってしまったら、私はどうすればいいの……』その声は聞こえている。俺の耳ではなく、魂へ直接触れてくる彼女の本音だけは、名前を失っても消えていない。「あなたの心の声は聞こえる。怖がっていることも、俺に忘れられるのが嫌だと思っていることも分かる」「分かるなら、わざわざ口に出さないでください。私
第22話 名前を捨てた処刑人たち坑道の前後に灯った赤い明かりは、松明でも魔導灯でもなかった。暗闇の中を歩いてくる者たちが身につけた、白い仮面の眼窩から漏れている光だった。前方から十二人、後方からも十二人。全員が人間と同じ背丈をしているが、足音は不自然なほど揃っており、鎧の擦れる音まで一つに重なっている。まるで二十四人の兵士ではなく、一匹の巨大な生物が、前後から俺たちを挟み込もうとしているようだった。「王国最強の処刑部隊と言っていましたね。所属と能力を説明しなさい、アルベルト」ガルディア皇帝に命じられ、独房から連れ出されたアルベルトは、壁へ背を預けたまま処刑人たちを見つめた。「彼らに正式な部隊名はない。王国では無銘衛士と呼ばれていた。死刑囚、戦争捕虜、王家に逆らった神官や魔術師から、戦闘能力の高い者だけを選び、名前と過去を奪って作られた部隊だ」「あなたが作ったのですか」リシアの問いに、アルベルトはすぐ答えなかった。その沈黙だけで十分だった。「人間王国と最初に接触した頃、私は彼らの術式へ竜族の命令魔法を組み込む方法を教えた。戦争を長引かせている強硬派を排除するため、汚れ仕事を引き受ける兵が必要だと考えたからだ」「国を救うためなら、名前を奪った人間を道具にしてもよいと考えたのですね」「そうだ。そのときの私は、正しい犠牲だと思っていた」アルベルトは言い訳をしなかった。かといって、罪を認めたから許されるわけでもない。自分の過ちを正直に語る姿には、反省よりも、自分にはもう死ぬ以外に責任の取り方がないという諦めが滲んでいた。前方の処刑人たちが、同時に武器を抜いた。剣、槍、弓、鎖鎌。それぞれ異なる武器を持っているのに、構えるまでの動きには一切のずれがない。後方の十二人も無言で散開し、逃げ道を塞ぐ。「呼びかければ、名前を取り戻せるの?」フィーネが黄金の鐘の欠片を握りしめた。「無理だよ。この人たちの中から、名前が聞こえてこない」俺は処刑人たちへ意識を向けた。
第21話 皇帝を乗せた魔導貨車が、正面から突っ込んできた対向貨車の認証に使われている真名は、ガルディア・ヴァルドレイク。竜帝国皇帝であり、リシアの母親の名前だった。「認証名が使われているだけで、母上が乗っているとは限りません。皇族の真名を盗み、魔導具を動かす鍵として利用する術式があることは、ここまでの出来事で分かっています」リシアは冷静に言ったが、その手は俺の肩を強く掴んでいた。平静を装おうとしているのは、誰の目にも明らかだった。何より、俺には彼女の魂語が聞こえてしまう。『母上が乗っている。理由は分からないけれど、間違いない。これほど近くにいるのに、どうして竜血の気配を感じなかったの。兄上は、母上に何をしたの……』「フィーネ。向こうの貨車に乗っている竜が、ガルディア皇帝かどうか分かるか?」「名前までは分からないけど、お姉ちゃんとよく似た音がするよ。でも、お姉ちゃんより低くて、ずっと我慢してる音。大きな鎖が心臓に巻きついて、力を少しずつ吸ってるみたい」フィーネは耳を澄ませるように目を閉じたが、すぐにつらそうな顔で胸を押さえた。「向こうの竜、眠ってないよ。起きてるのに、動けないふりをしてる。それから、こっちの貨車が近づいてることも知ってるよ」「母上と話す方法はないの?」リシアがロランへ詰め寄ると、彼は運転台の認証板を確かめながら首を振った。「対向貨車との通信回線は閉じられています。こちらの制動術式も受けつけません。速度はさらに上がっており、このまま進めば、およそ四半刻後に合流地点で衝突します」「四半刻とは、どのくらいだ?」「正確な砂時計がありませんので断言できませんが、人間の会話で百を十回数えるほどです」十五分前後と考えてよさそうだ。その短い時間で、こちらの貨車を止め、対向貨車から皇帝を救い出さなければならない。失敗すれば、狭い地下坑道で二台の鉄の箱が正面から衝突する。俺は運転台の認証板へ手を置いた。古い魔導貨車に刻まれた命令は、ベルガ砦







